昭和49年12月13日 朝の御理解
第69節 信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五 年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら 喜んで、わが心をまつれ。
ここまで行かなければ、信心が見やすいものにはならないと思うですね。まあだ、迷い半分のような信心であったり、自分の都合でする信心であったり。ではなくて、我ながら喜んで和賀心が奉れれるようになる。そういう信心が、私は出けて、初めて信心は見やすいもの。言うならば、有り難いもの、楽しいもの。もう一時とても神様を外す事の出来ないという事になって来る。そこから、信心は見やすいという事が言えるという。ね。
昨日は、美登里会でした。沢山みなさん、熱心に信心の研修をさせて頂いた訳ですけれども。いつもの事ですけれども、美登里会の会で、毎月出されるおかげの泉の原稿が先行される訳です。皆さんが色々聞かれますね。ですから大変、あの、まっ結局、有り難い信心の研修になる訳です。ちょうどもう、終わらせて頂いておりましたら、次々とお参りする方達がありましたが。中に、久富先生ところの二番目の息子さん。望さんて言う。
子供の時に何か熱心にお参りをして来ておりましたけれども。青年期になるに従って、もう神も仏もあるもんかといったような、あの、生活に入り。何とはなしに、生活が荒んで来た。えー、まあ私達でも側に寄りつけないごたる感じの青年で、あの、なっておりました。だいたい根はいい男なんだけれども、本当に、まあ言うならば(種?)交われば赤くなるというような事でありましたでしょう。
それから、嫁さんをもらいましたら、その嫁さんがなかなか行き届いた良い嫁さんをもらいまして、その頃からですね、何というか、心入れ替えたというか。信心は出けませんけれども、まあ、まともな( )になりまして、子供も出けて。まあ、円満にやっておりましたところが、病気にかかりました。腎臓病という。医者に行ったら、もう手遅れと、もう助からんちゅうほどしの事であった。
その頃から、ここ、まあ少し、その、お父さんはもちろん熱心にその事を願われる。本人もその事を願っておかげを頂いて。まあ、おかげで、もうそれこそ奇跡的なおかげを頂いて、退院する事が出けた。それでも、やはり、まあ信心が出けるという事でもなかったですけれども。まあ、お話を一つ頂く訳じゃなし。えー、日曜度には親子三人で最近は参って来ておりました。それを、この頃から、だんだん目が薄うなりまして、目が見えんごとなった。
もう、えー、見れなくなる、もう寸前というような風に、もう手を引かれなきゃならんぐらいに目が悪くなっとる。そこで、病院に入院して、手術をしたけれども、一時は見えるようになったけれども、スッキリとした事がなかったので、また目が視力が無くなって来た。それで、今度また手術をするという事になりましたが、今度は大変を、まあ頂きまして、日本に三人しかおられんというような、有名な先生がちょうど、来合わせられて、望さんの手術に当たって頂くというようなお繰り合わせを、まあ頂いた。
その間に、退屈だからその、ラジオを持って来てくれと言うて、そのお家に行ってあったところが、ラジオを持って行かずに、久富先生がカセットを持って行かれた。そして、その御理解を持って行かれて。まあ、たまたま、ゆっくりと御理解を頂く気にならせて頂いた。御理解を頂かせて頂く、頂いてです。繰り返し頂いておる内にです。十年前に腎臓で自分がおかげを頂いたという時の事が、ハッキリおかげであったという事が分かったと。
自分が助かるとか、助からんとかという風に言われておったけれども、やっぱ医者にもね、見たて違いちゅうのがあって。まあ、脅しのように思うておった自分が、十年前にない命を助けて頂いて、ちょうど十年間の間に二回、目の手術をするような事になって。二度目の手術をさせて頂いた時に、初めて気がついたのが十年前のおかげの事であった。その事を、もう昨日はその、もう本当に、本当にやっぱ十年前に頂いておったおかげっていう事が分かったという感じでした。しかし今度、おかげ頂いたね。
十年前にない命を頂いた。それから、次々と目があの、目の手術をしなければならないような、まだ若い(身空で?)目くらにならんならんところを、おかげを頂いたが。目くらよりも何よりも、本当に命を頂いておったという事に、改めて気付かせて頂いてです。もう、それから病院におって、カセットを頂くのが楽しみであったり、有り難いのであり。心の底から有り難うなって来たという、お礼お届けをしておりました。私は頂いておるおかげというものがです。本当言うたら氷山の一角であって。私共が見ておる、感じておる事は、本当言うたらその根が非常に大きい。ね。
その大きなおかげに、いわば少しずつ気付かせて頂くというところに、私は信心があると思うです。十年の信心をさせて頂いとる内に教えを頂いて。まあ、様々な事が分かる。分かるという事はどういう事かと言うと、おかげが分かるという事なんです。振りかえって見ると、信心させて頂くようになって、頂いたおかげというものは、もちろん形の上においても数知れずだけれども。あれもおかげであった、これもおかげであったと、目に見えない、今まで気付かなかったところに気付かせて頂くという事が、私は信心が分からせて頂く、頂いて行きよるんだという事を思います。
信心が本当に身に付いて行くという事です。望さんじゃないですけれども、十年ぶりに、あの時にない命を確かに助けて頂いておった。それを、気も付かないで疎かにしておるところにです、神様は次々と、もう目くらになる寸前といようなところまで負い込んで頂いて。しかも、たまたま、ね、御教えに振れて、十年前に自分が助けられておった事を実感として、感じれるようになった。氷山の一角、その出ておるところもおかげとは感じないくらいの、疎かな事やったけれども。ね、その根の方が今度の入院で気付いたと、こう言うのです。
そういう信心が、私は出来て、初めてそこから和賀心が拝めれるような信心というのは、出けて来ると思うんです。和賀心も、そういう信心が十年続いたら、我ながら和賀心を奉れれるようになると思うです。また、そういう信心になったら、ね。その日、その日の立ち行きと言うか。その日、その日の信心が。ね、出けて来るようになるのですから。ね。その日、その日のおかげを受けておるその、おかげの実感というものがです。ね、深く広くおかげを感ずる事になって来る時にです。
ただ、有り難い、勿体無い。信心させて頂く事が楽しゅうなって、有り難うなって来る時に、初めて信心は見やすいものという事になるのであり、見やすう信心をするが良いぞというのは、そういう信心をです。我ながら和賀心が奉れれる。ね、そういうところから、私が信心は見やすうなって来るという意味でなかなければ、本当のものではない。まあ、ただ、ね、都合の良か時に参ろう、金のある時参ろう。
なるほど、見やすい信心、そんなら。ね、けれどもです。和賀心が奉れれるようなという事にはならんのです。ね。十年と続いたら和賀心を奉れと言われるほど、自分の心を奉れれるほどしの信心とはです。やはり、ね、おかげをおかげと気付かせてもらうという事。昨日、ちょうど同じ時間に福岡から、ちょいちょいですけども、お参りをして来る方があります。この方はお願いをすれば、お願いした度、お願いする事だけは、まあ新たかにおかげを頂く訳です。
昨日も、大分市に住んでおられる妹さんが、あの、いつもお電話でお願いさせて頂いて。えー、まあ年末のお礼にお参りしたいから、姉さんも一緒に参ってくれと言われるから、一緒に参って来ておる。汽車で参って来て、あの、階段を上ったり下りたりする時に、フッと気がついた。はあ、ほんに合楽に御神縁を頂くまでは、足が痛うして、その、あの階段なんか手を引いてもらわなければ上れなかったのが、この頃は走って上れるような感じ。
もうだいぶんお年ですけども。えーと、あれは名前は何とか言いましたね、末永さん。あー、望さんというおばさんです。が、昨日その改めてです。私はいつの間にか足の痛みを感じんようになっておる事を、今日改めて気づいたというお礼のお届けがあっておりました。その、気付いたところからね、言うならば本当の信心が出けて来るのです。もう、信心を例えば。なら、3年、5年続けておるとです。ね、それこそ10年も続けておるとです。もう、何時とはなしに、何とはなしにおかげを頂いております。
それを何かの調子に気付かせてもろうてです。おかげを頂いておる事実を感じる。私はだから、信心を頂くとか、分かるという事はです。ね、教えを頂いて、理屈が分かるとか、信心というものはこんなもんだと、人に伝え、話されるというような事だけではなくてです。今まで気がつかなかったおかげ。言うならば氷山の一角ではなくて、その目には見えなかったところをです。気付かせてもらい、感じさせてもらえれる、それが広う、深う分かれば分かるほど、信心が分かったという事になるのであり、もちろん、広う深う分かるのですから、有り難いという事も、それだけ広う深う分かって来る訳であります。ね。
その日、その日が立ち行けば良いと。ね、だから見やすう信心するが良いというところだけを頂くとです。何か、えー、自分の都合の良い時だけ。ね、見やすう、そういう風に聞こえますけれども。決してそういう意味ではないという事がです。ね、3年、5年の信心ではまだ迷いやすい。10年と信心が続いたらという、続いたらというところが大事であります。続いておる内にです、ね、翻然としておかげを受けておる事実を、感じるようになって来る。
昨夜わたくしは、夜の御祈念はここで先生方がさせてもらいます。で、私は、まあ夜の御祈念に出て来たり、出てきなかったり。まあ、出て来るとしても、もう十時半ぐらいに、八時半ぐらいに出て来て、9時の御祈念が終わった後の御祈念を、お礼をさせてもらうぐらいですけれども。昨日はそんな訳で研修会が終わった後もお取次ぎがあっておりましたから、昨日は遅くなった。風呂に入ったり、お食事をするのも遅くなった。
最近、久富先生が、ああして御承知のようにお神酒が好きですから、一緒にお食事をしますから。お神酒を、いわゆる晩酌を頂くんです。で、この頃は、まあ、前はあんなじゃなかったけど、弱くなりましてね。一合あまりのお神酒でも、もう本当に酔ってしまうんです。ですから、そのままグッスリ、もう寝てしまいます。そして、まあ8時半頃、目覚ましのおかげを頂くと、それからここへ出て来る訳なんですけれども。夕べは目が覚めた時にはもう、8時50分でしたか。
もう、後10分ですから、奉仕着つけたりしよると、もう皆が引けておる頃になると思いましたから。まあ、どうせ夜中に一偏はお礼に出て来るのですから、そん時一緒に御挨拶させてもらおうと思うて、(枕をつけた?)途端に頂くのがね、あの、水道のあの蛇口からスタン、スタン、スタンと滴が落ちておるとこを頂くんです。もう、ハッと気付かせて頂いてね。結局、もう一ひねりなんだ。私は信心の大事なところはそれです。
最近は、朝の御祈念に、まあ言うならば何時も、もう5時の御祈念には、ここにいっぱいお参りがあっておったのが、半分ぐらいしかない。そして、御祈念が始ってから、掛け込んで来るような方がこの頃、何かこう目立って来たような感じがする。これはだから、それぞれの信心で良いのです。幼稚園なり、小学校は小学校なり。大学は大学なりでいいですから。もう、一ひねり、もう一気張りというところをです、私は気付かにゃいけないと思うです。
ね、例えて言うならば、朝の5時の御祈念にお参りをさせて頂きよったけれども、この頃、5分、10分必ず遅れる。ね、ですからそういう人は、もう10分間早起きをする。言うならば、もう一ひねりをする事なんです。ね。夜の御祈念にお参りをしておる人達がです。ね、言うなら自分の都合で夜の御祈念に参るのですけれども。せっかくお参りをすんなら、御祈念から頂く。せっかくお参りをするなら、なら御理解だけにぐらい間に合おうというようにです。
もう、私が9時ギリギリに参って来る方達があります。ね、だからそういう方達が、もうちょっと早く来ると、ゆっくりとお届けもさせてもらえるし。だから、そこんところを、それぞれの信心の、まあ段階に応じてでも良いですから。皆さん、もう一気張りというところが、お互い、銘々あるのじゃないでしょうかね。ね、それが一滴ではあるけれども、それが一晩中スタン、スタン落てよると、どういう事になるかと言うと、言うなら、いわゆる電源を無駄に消費しなければならない。いわゆるおそまつ御無礼の元がそこから出て来るのです。ね。
10年の信心が続いたらと。そういう信心が続いたらというような、続く信心もです、だらだらと続くのではなくてです。そういう一つの節度を持った、キチッとした信心がね、出けなければならん。夕べも、だから慌てて参りましたから、もうギリギリ9時でした。けれども、次から次とお参りがあっておりましたから、また、なるほど私でなからなきゃ出けないようなお取次ぎもあったりして。やっぱり、出て来て、御用に使うて頂いた事を感じさせて頂いたんですけれどもです。ね。
これは、銘々のところでです。ね。もう一頑張りというところが。ね、そんなら二頑張りも、二頑張りもという事じゃない。もう一段ずつ信心は進んで行くのです。ね。ですから、もう5分でも良い、10分でも良い。早い事によってです、例えば御祈念に間に合うというような人ならばです。もう10分早起きをする事に、一ひねりをさせてもろうたら、ね、私は有り難いと思います。
どうしても、やはり都合があってです。なら、5時の御祈念が5時半ぐらいにしかお参りが出けないという人はです。ね、せめて、なら御理解だけにぐらい間に合うようおかげを頂かせてもらう。そすと、次にはまた、だんだん信心を進めて行く内に御祈念にも間に合うように。御祈念にも間に合うようにというのが、また進んで行ってです。
ね、それにはどうしても、何時も私共が一ひねり、もう一気張りの気持ちを、私は養うて行かなければ。ね、そこから私は言うならば、そういう信心です。いつも、こう。これではならんと、こう。もう一気張り、もう一ひねりさせて頂くような信心が、私は10年と続いたらです、必ず我ながら和賀心が奉れれるような心の状態が、心の中に感じ頂けれるようになって来ると思うです。ね。そういう信心から、初めて信心は見やすいもの。見やすいという事は、有り難いもの、楽しいものという事だと思うです。
信心のない人達が見たら、とても難しく見えるでしょう。けれども、好きな所に通う。ね、有り難いものが頂けれる。ただ、あの御祈念の雰囲気だけでも楽しいという事になって来るのですから、難しい事じゃない、楽しゅうして、有り難うしてという信心が生まれて来なきゃいけません。いつも何か一つの、願いなら願いに、それだけに終始してしまうなんて、本当にもう勿体無い話です。願いがある、その願いを通してです。言うならば信心の工夫がなされて、それが楽しいもの、有り難いもの。
昨日からも申しますように、ね、例えば御祈念の楽しみといったような事でもです。ひとつ、本気で御神前に、気分の良か時でも良いからね、御神前に座って。大祓いの二巻でも三巻でも続けて上げさせてもらうような気持ちになってごらんなさい。信心、拝む事が楽しゅうなって来るです。ね。お参りをする事が嬉しゅうなって来る、有り難くなって来るです。それがね、もし楽しゅうも嬉しゅうもならんならです。そういう信心が、たとえ何十年続いたって、和賀心が拝めるようにはならんです。
いつまで建っても苦労が絶えませんから、ね、その苦労を追いかけ、苦労を追いかけて行くような信心ですから、それは、難しい。はあ、ほんにこのおかげいっちょ頂いたなら、もう参らんでん良かばってんちゅうごたる信心になってしまうです。ね。信心が楽しいものになって行かなければ、有り難いものになって行かなければ。それにはね、ちょっと言うならば心掛けです。もう一ひねり、もう一頑張りと、というところをです、だんだん身に付けて行って。
段々、本当な事へ、本当なものへと進めて行くところから、いわゆる本当なおかげが受けられるようになる。ね。その日、その日が立ち行くおかげにもなって来るしです。信心が見やすいもの、いわゆる有り難いものになって来るのです。信心とは、ね、いわゆるおかげの分野というか。今まで気付かなかったところにです、おかげを実感するようになる。しかもそれがです、目には見えないから、うかつにしとれば気も付きませんけれども。信心をその進めて行く内に、あれもおかげであった、あれもおかげであったと。
いよいよ、目に見えなかったところのおかげの世界が広うなって来る。という事は、信心が広うなって来るのであり、おかげの分野もまた広うなって来る。ね、信心の喜びが深くなって来れば。ね、深くなって来るほど、ね、深い、言うならばところにおかげを感じれるようになる。ね。久富望さんの昨日のお届けじゃないですけれども。ね、十年ぶりに初めて、次々とお気付けを頂きながら、初めて十年前に頂いておった命の事が感じられるようになって、有り難うなった。
ね、毎日御理解をカセットで頂くのが楽しゅうなって来た。と…………
(途中切れ)
末永信太郎 ( 8月26日 )